来年の最低賃金、異例の先送り

2025-11-24 04:31

労使双方の調整で政府苦心

 インドネシア政府は来年の全国の州最低賃金(UMP)について、例年の期限である11月21日までに発表しなかった。昨年の憲法裁判所の判断を受け、算定方式を改定しているためだ。全国で一律に引き上げる方式から、地方や産業分野に応じて差をつける方針だが、各方面への調整に時間がかかっている模様だ。

 (ジャカルタ日報編集長 赤井俊文)
西ジャワ州ボゴール県チビノンのボゴール県庁舎前で労働者たちが20日、徒歩での抗議デモを行った。最低賃金の引き上げやアウトソーシング雇用制度の廃止、そして大規模な解雇(PHK)に反対することを求めた=アンタラ通信

憲法裁が見直し判断

 インドネシアの毎年の最低賃金は、中央政府が必要なデータと算定方式を地方政府に示し、各地の賃金審議会が計算・勧告。その後、州知事が決定し、11月21日に公表、翌年1月1日から適用を開始する。今回、インドネシア政府の発表が例年より遅れたのは、最低賃金の大元となる算定方式の見直しが続いているためだ。

 見直しの直接のきっかけは、昨年に憲法裁がこれまでのインフレ率や経済成長率だけでなく、労働者が「生活に見合う水準(KHL)」の生活を送れるかどうかを反映すべきだと判断したことにある。KHLは食費や住居費、交通費、通信費などを定期的に測定し、それを最低賃金に反映させる考え方だ。

 これが導入されれば、最低賃金は物価動向とより密接に連動する。

 しかし、その一方で地域ごとに生活コストの差が明らかになり、ジャカルタのような大都市では家賃や交通費が高く、UMPが押し上げられる方向に働くが、物価水準が低い地方との格差はさらに拡大しかねない。

労組は1割増を要求

 最低賃金の発表の遅れは、労働者と企業の双方に影を落としている。労働者側は物価高が続く中で「来年幾ら賃金が上がるのか」が見えず、家計のやりくりや子どもの学費・住居費の見通しを立てられないと訴える。

 各労組は2026年分について全国的に8・5〜10・5%程度の引き上げを求めており、この要求水準は、今年の最低賃金の全国平均の引き上げ幅である約6・5%を上回るものだ。仮にジャカルタで10・5%増が認められれば、最低賃金は約596万ルピアに達し、東南アジアでも最高水準の範囲に入る。

 労組側は「発表の遅れは、生活防衛の議論を後ろ倒しにするものだ」と中央政府を批判している。

企業は採用・予算で不安

 一方、企業側も別の意味で不安を募らせている。新卒採用や契約更新の給与テーブル、人件費予算、価格転嫁の計画などは例年、秋から年末にかけて固めるのが通例だ。最低賃金が幾らになるか分からなければ、来期の損益見通しを精緻に描けない。

 さらに、年明け後に新水準が決まり「今年の1月分にさかのぼって差額を支払え」と求められる可能性もあり、経営計画の不確実性は一段と高まる。企業側、特に繊維・衣料など労働集約型産業や、中小企業が多い地方では、賃金上昇がそのまま利益圧迫につながるとの危機感が根強い。

政権は労働者守る姿勢

5月1日の労働者の日(メーデー)でプラボウォ大統領は初代スカルノ大統領以来60年ぶりに演説した=大統領府公式サイトより

 プラボウォ・スビアント政権は「中間層の所得底上げ」という旗印を掲げている。5月1日のメーデー(労働者の日)には独立記念塔(モナス)で、初代スカルノ大統領以来60年ぶりに、インドネシア全土から集まった労働者を前に演説し、労働者を保護する立場を示した。

 動員力を持つ労組を無視すれば、政権にとって政治リスクとなるのは必至だ。一方で賃金水準の急激なベースアップは、人件費などの面でベトナムなど競合国と比較するとインドネシアの魅力をそぎかねない。政府内では、労使双方に一定の説明が可能な「政治的に耐えうる」新公式が求められており、調整は難航している。

求められるバランス感覚

 最低賃金をめぐっては毎年、労働者の福祉政策、産業政策、投資政策が正面衝突する、いわば政治的火種となっていた。2026年の新しい算定式づくりは、その火種に「制度改革」という油を注ぐ挑戦でもある。

 インドネシアの最低賃金は、単なる労働市場に対する規制ではなく、「一種の福祉政策」として機能してきた側面が強い。失業保険や生活保護に相当する制度が十分に整っていない中で、都市部の正規雇用者にとって最低賃金は「これ以下には落とせない」所得の下限であり、社会保障の空白を埋める役割を果たしている。

 政府がどの程度KHLを重視し、どこまで企業負担に配慮するのか。公式発表の遅れは、労使と地方の不安を映し出す鏡となっている。