消費市場から製造国家へ
3度目の正直なるか

国産EVお披露目
「インドネシアが自動車・オートバイ・コンピューターを自力でつくれないまま、世界第4位の人口を抱える国であってはいけない」――。プラボウォ大統領は就任間もない昨年11月、政府全国調整会議でこう発言し、製造業のバリューチェーン(設計・製造・技術開発)を自前で掌握する「産業主権の確立」を強調した。
国産車構想はその中核に位置するもので、国防省傘下のテクノロギ・ミリテル・インドネシア(TMI)は今年7月にジャカルタ郊外で開催されたガイキンド国際オートショー2025で、国産バッテリー式電動SUV(スポーツタイプ多目的車)「i2C(Indigenous Indonesian Car)」を発表した。量産化は2028年までを目標とし、価格は5億ルピア程度を想定している。TMIはプロジェクト全工程を国内人材で行うと強調している。
政府は国産車実現のために予算と工場用地をすでに確保し、開発チームが稼働中だという。これにより新たな雇用を生み出し、製造業全体の底上げにもつなげたい考えだ。
スハルト期に失敗
インドネシアにとって国産車開発は悲願だ。1996年、当時のスハルト政権下で「Timor(ティモール)」ブランドのセダンが国産車第1号として華々しくデビューしたが、その実態は韓国・起亜(キア)社の乗用車を輸入し、ラベルを貼り替えただけのものだった。政府は当時、大統領令でスハルト氏の息子トミー氏が率いるメーカーを優遇し、ティモールには関税免除など特権を与えた。
しかし、この露骨とも言える縁故主義による保護策は国際的な批判を招き、日本や米国、欧州連合(EU)が世界貿易機関(WTO)提訴に踏み切る事態となった。結局、キアからのノックダウン輸入によって国内に技術も部品産業も蓄積できなかったティモール計画は、アジア通貨危機とスハルト政権崩壊の余波もあってわずか2年で頓挫している。この失敗は、「政治主導の拙速な国産車計画は長続きしない」という教訓を残した。
ジョコウィ期は象徴

ジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)前大統領の時代には、小型商用バンのガソリン車「Esemka(エセムカ)」が国産車ブランドとして打ち出された。このブランド名は「SMK(エス・エム・カー)/Sekolah Menengah Kejuruan(職業専門学校)」の頭文字の発音から来ており、「職業専門学校の生徒が関わる国産車ブランド」というコンセプトを持つ。中部ジャワ州に19年9月に工場が開所された際には、ジョコウィ氏も式典に出席し、ブランドを後押しした。
しかし、部品の国内調達率が6割程度といわれるほか、流通が一部に限られることなどから、製品としての「国産車」というよりはジョコウィ政権の政治的な象徴としての性格の方が強かった。
障害に政治的しがらみ
プラボウォ政権の国産車「i2C」の開発を担うTMIは国防省系の財団企業であり、乗用車の開発にどの程度ノウハウがあるのかは未知数だ。さらに、国産車開発が「国家戦略事業」となっている以上、政治との距離も近く、官僚機構内部での利権争い、民間とのニーズの乖離(かいり)といった外部要因に影響される懸念もある。
過去のティモール計画が軍や政権中枢の思惑に翻弄された歴史を鑑みれば、今回はより透明かつオープンな形で民間の知見や海外先進技術を取り入れることが不可欠だろう。すでに韓国の現代自動車が今回の国産車計画に参加する意欲を表明している。同社はすでに西ジャワ州で完成車工場と、韓国バッテリー製造LGエナジーソリューションとの工場を稼働させており、量産体制の両面で即応可能だとみられる。
消費から「つくる側」へ
現在のインドネシア自動車市場はトヨタやダイハツなど、日本勢だけで販売の8割以上を占めている。日系メーカーは多くがCKD生産(部品を輸入して国内で組み立て)方式をとっており、ローカルメーカーに本格的な技術移転が十分に進まないまま、数十年が経過した。インドネシアは長らく自動車の巨大市場であり続けてきたが、現在まで自国での開発・生産技術は蓄積できておらず、独り立ちするレベルには至っていない。
プラボウォ政権の国産車生産の野望は、日本車の牙城を突き崩し、これまで優遇措置で誘致してきた中国などのEV(電気自動車)メーカーとも対抗しようとするだけに、非常に困難な道が予想される。次回は国産車開発への再挑戦の成否を占う上で近隣国の例を検証する。マレーシアの「プロトン」やベトナムの「ビンファスト」といった事例をひもときつつ、国産車開発にとって重要な教訓を見ていこう。(㊦に続く)
(ジャカルタ日報編集長 赤井俊文)
