インドネシアニュース 坂村さんに聞く 海外クライシスのツボー第2回 備蓄が支える思考力

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 ジャカルタでデモや暴動の兆候が生じた際、企業や駐在員にとって最も安全な選択肢は「自宅待機」となるのが一般的だ。しかし、適切な判断であっても、水や食料、薬が不足すれば不安が増幅し、冷静な判断力を失う恐れがある。危機管理において重要なのは、単に物資を集めることではない。緊急時においても「安心」と「思考力」を維持できる環境を、日ごろから構築しておくことが求められる。

備蓄は命を守る以外にも、メンタルの健康や思考力低下を防ぐのに重要だ=ShutterStock

 アマンさん(以下、ア) 今回のテーマは「自宅待機」ですが、やはり一番大事なのは備蓄でしょうか。

 坂村さん(以下、坂)  そうですね。特にジャカルタでは、政情不安などの際に自宅待機が最も安全な選択肢となる場面が多く、その前提を支える備蓄は極めて重要と言えます。

 ア 備蓄というと「物資を不足させない」という意味合いが強い気がします。

 坂 もちろんそれもありますが、本質的に重要なのは、物資の不足が人間の「思考力」を著しく低下させるという点です。これは危機対応において決して軽視できません。

 ア 思考力が落ちるとは、具体的に?

 坂 心理学で「スカーシティ・メンタリティ(欠乏マインド)」と呼ばれる現象です。何かが不足していると感じた瞬間、その対象に注意が過度に集中してしまい、論理的思考や衝動の抑制、長期的な判断力が損なわれる状態を指します。

 ア 物の不足そのものより、「足りない」と感じることが問題なのですね。

 坂 その通りです。備蓄は命を守るためだけでなく、冷静さを守るためにも必要です。

 私は熊本県出身ですが、10年前の震災の際、その差を痛感しました。水や食料を備えていた家庭は比較的落ち着いていましたが、備蓄が無かった家庭は給水所に長時間並んだり、重い水を運ぶなどで疲れてしまい、家庭内の空気も険悪になりがちでした。備蓄の有無は、そのまま心理的余裕に直結します。

 ア ずっと「次の水をどう確保するか」という不安に思う状態では、冷静な判断は難しいでしょうね。

 坂 ええ。備蓄は個人の安全確保だけでなく、家族や地域コミュニティーとの良好な関係を維持する上でも重要な役割を果たします。

 ア では、実際には何をどの程度備えておけばよいでしょうか。

 坂 まずは生命線となる水と食料です。理想は10日分で、水は1人あたり約30リットルが目安です。ジャカルタの騒乱は数日で沈静化することが多いですが、物流の完全な回復には1週間程度を要する場合もあります。最低でも5日分、できれば10日分を想定しておくべきです。

 ア 食料は何を備えておくのが現実的ですか。

 坂 長期保存が可能な食品です。菓子類やゼリー状飲料、パックご飯、レトルトパウチ食品などで十分対応できます。

 重要なのは備えに豪華さを求めるのではなく、「食べるものがある」という安心感を維持することです。健康な成人であれば数日間摂取しなくてもすぐに生命の危機に直結するわけではありませんが、「食料が無い」という欠乏感が判断力を著しく低下させるという点を重く見るべきです。

 ア 次に医薬品ですね。

 坂 常備薬と衛生用品は欠かせません。ぜんそくや糖尿病などの持病がある方は、主治医と相談の上で、可能な限り2週間分程度の処方薬を確保しておくのが望ましいでしょう。加えて、市販の解熱鎮痛薬や胃腸薬も備えておくべきです。

 ア 衛生用品はどの程度必要でしょうか。

 坂 簡易トイレや生理用品といった日常で使う衛生用品が重要です。包帯や消毒薬などの基本的な救急用品があれば、なお安心ですね。

 ア 現金も必要ですか? 坂 必要です。騒乱時にはデジタル決済が一時的に停止したり、アクセス集中で利用しづらくなったりする恐れがあります。

 生活水準にもよりますが、最低でも1人あたり1万円相当のルピア紙幣は手元に置いておきたいところです。

 ア ただ、備えるべき物が多すぎて、負担になる心配もあります。

 坂  そこが落とし穴です。「あらゆるリスクを完璧に排除しよう」とすると、消火器、軍手、長靴など次々に項目が増えていきます。もちろん必要な場面はありますが、考え過ぎると準備自体が重荷になり、結局何も準備できなくなります。

 ア 「完璧に備えよう」とすることが、かえって手が止まることにつながる訳ですね。 

 坂 その通りです。だからこそ目的の明確化が重要です。まずは「不足への恐怖を避ける」という目的に絞りましょう。水、食料、薬、衛生用品、そして現金の5点。これらを確保すれば、実用性の高い備えが可能になります。

 ア 日常生活での注意点はありますか。 

 坂 自分で車を運転する人は燃料(ガソリン)を常に半分以下にしないことです。危機が起きるとガソリンスタンドにはすぐに長蛇の列ができ、4~5時間待ちになることもあります。

 ア 備蓄とは単に防災用品を備えるだけでなく、自分自身の「判断力」を守るための準備なのだと実感しました。

 坂 まさにその通りです。備蓄が緊急時に役立つのはもちろんですが、「いざという時に落ち着いて動ける状態を作ること」が本質となります。

 備蓄とは物資の話であると同時に、「安心」と「冷静な判断力」を支える土台でもあるのです。

 最後に実際のチェックポイントを以下3つにまとめておきましょう。

 ①備蓄の目的は「思考力」の維持。命を守るだけではなく、物の不足による不安や判断力低下を防ぎ、家族やコミュニティーの安定を保つことにつながる。

 ②優先すべき必需品は水、食料、医薬品、衛生用品、現金の5つ。備蓄目安としては水が30リットル、食料が5~10日分、持病の薬が2週間分分、現金が1万円分相当のルピア紙幣。

 ③完璧主義を捨て、「不足への恐怖を避ける」という目的に絞り備えを完了させることが、実際の危機対応につながる。


〈坂村史帆さんの経歴〉

 東京大学大学院を修了後、外資系コンサルティング・ファームで地政学リスク分析と企業の危機管理に12年間従事。専門分野は、国際紛争、テロ、治安情勢。米国やインドなど世界10カ国以上で講演実績。

 地政学リスクやリスクマネジメントについての講演や相談の依頼は infopod2018(アット)gmail.com または、noteのページ(https://note.com/transitessay/n/n1b666e2e63f7)まで。