文化・くらし・コミュニティー 残留日本兵「生きた証し」一冊にー長洋弘さん、インドネシア語版を出版

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 太平洋戦争後もインドネシアに残り、オランダとの独立戦争に加わった元日本兵の人生を記録した長洋弘さんの著書「帰らなかった日本兵」のインドネシア語版「Prajurit Jepang yang Tidak Kembali」の出版記念式典が、ジャカルタのコンパス社で開かれた。長さんは式典で、約40年にわたって続けてきた残留日本兵への取材を振り返り、「俺たちは逃亡兵ではない。生きた証しが欲しい」と訴えられたことが記録を始める原点だったと語った。

残留日本兵の取材を40年以上続けた長洋弘さん=ジャカルタ日報撮影

 長さんが初めてジャカルタを訪れたのは1982年。当時、残留日本兵は「ジャピンド」と呼ばれ、その呼び名には侮蔑的な意味合いもあったという。

 在留邦人から「怖い人たちだから近づかない方がいい」と言われたが、長さんはかえって関心を持った。知人の紹介で、薄暗い小さな小屋に集まった元日本兵5人と面会。当時の長さんはジャカルタ日本人学校の美術教師で、記者ではなかった。

 その場で一人が「俺たちはこのままでは死ねない。俺たちは逃亡兵ではない。生きた証しが欲しい」と訴えた。長さんはその後も彼らの話を聞くうちに「祖国から捨てられた人たちなのではないか」と感じるようになった。そして、自分が彼らの生きた証しを残そうと考え、写真を中心とした記録を試みた。

 取材は容易ではなかった。「インドネシアは広い」「費用はどうするのか」「危険もある」と周囲の多くが反対した。それでも、長さんはジャカルタ周辺から一人ずつ訪ね歩いた。

 当時30代半ばだった長さんは、元兵士から「戦争を知らないお前に何がわかる」と叱られたこともあったという。

 このため、初対面で戦争体験や経歴を聞くことはしなかった。まず世間話をし、何度も足を運び、信頼関係ができてから写真を撮り、話を聞いた。

 長さんは当時について「故国日本から、息子が父親を訪ねていくような気持ちだった」と表現した。各地を回るうちに残留日本兵の間でも存在が知られ、「なぜ自分のところには来ないのか」と声をかけられるようになった。

 彼らの証言から浮かび上がったのは、インドネシアに残ることを自ら望んだという単純な物語ではなかった。長さんによると、日本への強い望郷を抱えながら、「非国民」「逃亡兵」と見られることに苦しみ続けた人も多かった。

インドネシア語版の除幕式に参加した長さん(中央)=同

 オランダとの独立戦争で片腕を失った元兵士は、それが「日本のためではなく、この国、インドネシアのために失った腕」だったため、日本には帰れないとの思いを抱えていた。長さんは、取材した人々に共通する言葉として「私は好きで残ったのではありません。どうして祖国を捨てることができましょう」と紹介。「悔やんでも悔やみきれない一生」と語る人もいたと振り返った。

 取材を5~6年続けて内容をまとめても、日本では出版社がなかなか見つからなかった。「暗い話だ」と出版を断られつづけたが、それでも取材を継続。約10年目に元日本兵について雑誌に寄稿。その記事を読んだ朝日新聞の編集幹部が長さんの自宅を訪ね、出版を申し出たことで、1994年に最初の著書が刊行された。

 その後、東京などで写真展を開催し、95年にはジャカルタでも実現。同年、当時の駐インドネシア日本大使から残留日本兵を顕彰する機会が設けられた。長さんは、取材を続けてきた元兵士たちが「逃亡兵」としてだけ扱われなくなったことに涙したと語った。

 ある元兵士からは「最後まで付き合ってほしい」と頼まれたという。2014年に東ジャワ州マランに暮らしていた最後の取材対象者が亡くなったが、その後も残留日本兵の2世、3世との交流を続けている。

 インドネシア語版の出版にあたり、長さんは長年の取材を振り返りながら関係者に感謝を表明した。40年にわたって記録してきた残留日本兵の「生きた証し」が、今度はインドネシアの読者やその子孫へと引き継がれることになる。