インタビュー 柴田章吾氏インタビュー ㊤ 次はアジアの子どもたちへー難病の少年を救った「甲子園」

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 日本の高校野球を象徴する「甲子園」の文化をアジアへ――。次回で3回目を迎える「アジア甲子園」(2027年1月16日開催予定)の発起人となった、元読売巨人軍投手の柴田章吾氏にとって、甲子園は単なる野球大会ではない。難病で野球を続けることさえ危ぶまれた少年時代、自らを支え、その後の人生を変えた目標だった。プロ野球選手を経て外資系コンサルティング会社、起業家という異色の道を歩んだ柴田氏は、なぜ再び野球に戻り、競技人口の少ない東南アジアで「大会」をつくろうと考えたのか。アジア甲子園誕生までの道のりを聞いた。(ジャカルタ日報編集長 赤井俊文、写真は柴田氏提供)

アジア甲子園発起人の柴田章吾氏

 ——小学2年で野球を始め、小学生時代には全国制覇を経験した。中学では日本代表のエースに選ばれた一方、国指定の難病「ベーチェット病」を発症した。40度の高熱や激しい腹痛にも苦しんだ中、野球を続けることへの不安はなかったのか。

 ◆もちろんあった。ただ、自分にとって得意なことは野球だった。子どものころから勉強と野球を両方器用にこなすというより、一つのことに打ち込むタイプ。病気になって野球を続けること自体が難しくなったが、「それでも甲子園に行きたい」という気持ちはあった。その目標があったからこそ、野球を続けられた。

 ——愛工大名電高では治療を続けながら、練習を1時間に制限された時期もあった。高校3年の2007年夏に甲子園へ出場し、初戦の創価高(西東京)戦では4回を1安打無失点、6奪三振の好投を見せた。自身にとって甲子園とは。 

 ◆人生を変えてくれた場所だ。もし甲子園という目標がなければ自分の人生は全く違っていたと思うので、野球によって助けられたという感覚がある。

明大で投手として活躍した柴田氏。国指定の難病「ベーチェット病」に悩まされながらも、着実に野球のキャリアを積み上げた

 ——高校卒業時は一度、野球をやめることも考えたそうだが、甲子園出場後に全国から100通を超える手紙が届いた。その後、明治大学へ進み、11年秋のドラフトで巨人から育成3位指名を受けた。そういった過酷な環境でも野球を続けた原動力は。

 ◆自分のプレーを見て、応援してくれる人がいると知ったことが最大の転機だった。難病を抱えながらマウンドに立つ姿から、何かを感じ取ってくれる人がいる。それこそが、自分が野球を続ける本当の価値なのだと気づかされた。

 ——明治大では全国優勝を経験し、その後、巨人へ入団。しかしプロでの現役を3年で退いた。マウンドを去る際、どのような思いを抱いたのか。

 ◆25歳までずっと野球一筋で、それ以外の社会経験は皆無だった。ただ、自分が命を救われた野球の経験と、これから学ぶ仕事やビジネスの世界をいつかどこかで結びつけられないか。漠然とだが、そんな未来を思い描いていた。

2011年には読売ジャイアンツから育成3位でドラフト指名を受け、3年間のプロ生活を送った

 ——引退後は1年間、巨人の球団職員として勤務し、16年に外資系コンサルティング大手のアクセンチュアへ入社した。野球界を離れ、コンサルティング会社を選んだ理由は。

 ◆勉強もビジネスも経験してこなかったからこそ、一度全く違う世界に身を置いて自分を鍛えたかった。

 アクセンチュアでは企業の課題を洗い出し、解決の仕組みをつくってビジネスを動かすクライアントワークを叩き込まれた。それまでの野球人生とは正反対の世界だったが、約3年半の在職期間で、野球だけでは決して身につかなかった論理的思考や経営の視点を学ぶことができた。

 ——一方で、再び野球に関わりたいという思いが芽生えたのか。

 ◆そうだ。ただ、単に「野球を教える仕事をします」ということでは、自分の中ではしっくりこなかった。野球を教えるだけではなく、野球そのものを発展させていく仕事がしたかった。そして、それをビジネスとして続けられる形にしたかった。自分が野球で経験した感動を、多くの人に届けられるような仕事にできないかという思いが強くなった。

アジア甲子園で入場行進する各チームの選手

 ——東南アジアとの接点になったのがフィリピンだった。当初から海外で野球事業を展開する考えだったのか。

 ◆最初から東南アジアで野球をやろうと思っていたわけではない。

 一番の目的は語学留学だった。英語を話せるようになりたいと思い、ロンドンなどに比べ費用を抑えられるフィリピンでのホームステイを選んだ。

 そこで、ホームステイ先の子どもたちに野球を教える代わりに英語を教えてもらう生活を送っていたら、次第に周りに自然と人が集まるようになっていった。

 ——現地で野球を教えてみて、何を感じたのか。

 ◆基礎が全く教えられていないと感じた。日本なら誰もが知る当たり前の技術やルールが現地には伝わっておらず、指導者も圧倒的に不足していた。裏を返せば、自分が日本で培ってきた野球の知見やノウハウは、海外では極めて高い価値を持つのではないかと思った。

 ——2019年には起業し、フィリピンで野球アカデミーの事業化に乗り出した。20年初めには現地に生活拠点を移した直後、新型コロナウイルス禍に見舞われ、3月に帰国を余儀なくされた。

 ◆本格的に始めようと思っていた矢先のコロナ禍だった。スクールを開いて選手を育てるという青写真が白紙になり、改めて「野球を広めるとはどういうことか」をじっくり考える時間ができた。

 その時、指導すれば技術は向上するが、うまくなった先で選手たちは何を目指せばいいのか、という問題に突き当たった。

 ——その疑問が「大会の創設」というアイデアに結びついたのか。

 ◆日本には甲子園がある。「甲子園に行きたい」という明確な目標があるからこそ、生徒たちは毎日懸命に練習する。ならばアジアの地にも、練習の先にある「誰もが目指したくなる憧れの舞台」を先に用意すればいいのではないか、と思いついた。

 ——構想を考える上で、漫画「ドラゴン桜」などで知られる三田紀房氏との出会いが大きかった。

 ◆三田先生に相談した際、「野球版の東大をつくればいい」という趣旨のアドバイスをいただいたことが非常に大きかった。東大という明確なゴールがあるからこそ、そこを目指して必死に勉強する人が現れる。野球も同じで、先にゴールを提示すればいいという逆転の発想だった。

 競技人口が増えるのを待ってから大会を立ち上げるのではない。まず目指すべき憧れの舞台(大会)を作る。目指す場所ができれば、選手はそこへ行くために自発的に練習し、チームが生まれ、指導者も育つ。その順番もいいのではないかと考えた。

 ——最初に「アジア甲子園」という構想を聞いた時、不安はなかったのか。

 ◆最初は「そんな大それたことができるのか」と思った。 

 ただ、その後も毎日考え続けて、1年ほどが経過しても、それ以上に自分がやりたいと思えるアイデアは出てこなかった。だったら、まずやってみようと思い、21年の夏ごろから具体的に動き始めた。

日本人有志によるブラスバンドも大会を盛り上げた

 ——なぜ「アジア高校野球大会」ではなく、あえて「アジア甲子園」という名称にこだわったのか。

 ◆単なる野球大会をつくりたかったわけではないからだ。「甲子園」という言葉には、勝ち負けだけではない文化がある。

 選手が一つの目標に向かって努力する、仲間と一緒に戦う、応援する人がいる、学校や家族も一緒になって盛り上がる――そうしたもの全てが甲子園だと思う。

 自分自身も、難病になった時に甲子園という目標があった。それが自分を支えてくれた。

 今度はアジアの子どもたちにも、苦しい時でも「あそこに行きたい」と思える場所をつくりたい。

 ——ただ、「甲子園」という名称は商標登録の関係で自由に使えるものではなかった。実現までには、日本の野球関係者や阪神電気鉄道との調整が必要だった。

 ◆その点は非常に重要で、プロやアマチュア野球の関係者にも話をし、阪神電鉄側に相談を持ちかけた。結局「甲子園」という名称を使わせてもらうまでに1年ほどかかった。

 大切なのは「甲子園」が持つイメージを壊さないこと。単に名前を借りて商売をするのではなく、日本が育んできた野球文化そのものをアジアへ広げる。その大前提を崩してはいけないと考えている。

 ——東南アジアにはフィリピンやタイなど、インドネシアより野球になじみのある国もあるが、なぜ最初の開催地にインドネシアを選んだのか。

 ◆最後は「勢い」だったと思う。

 関係者との初期の議論では、タイを推す声も強かった。しかし、東南アジアの各国を調べていく中で、インドネシアの大きな人口規模や市場としての将来性に魅力を感じるようになった。

 決定打となったのは、国際大会の実績があるジャカルタ都心のグロラ・ブン・カルノ(GBK)地区に、立派な野球場が現存していたこと。野球場が都心にあることも大きかった。  

「アジア甲子園」のスポンサー企業らが集まった交流イベント「アジアコミュニティ2025」には、漫画家の三田紀房氏(前列右から5人目)もジャカルタまで駆けつけた

 ——実際に大会を開き、インドネシアの野球にどんな可能性を見出したのか。

 ◆一番驚いたのは会場の盛り上がりだった。最初の大会で1000席が満員になるとは正直思っていなかった。しかも、観客の8割以上がインドネシア人だった。

 ——開催を重ねることで、現地の認知度や反応に変化は表れているのか。

 ◆1回目の24年当時は「甲子園って何?」という人が多かった。それが今では「次はいつ開かれるのか」と聞かれることが多くなった。

 普通の野球大会では、あそこまで多くの人は集まらない。「アジア甲子園」という名前が、少しずつ現地に浸透し始めていると感じる。最初の2年間で、大会運営の準備や体制はかなり整ってきた。

 ただ、これからはいかにして大会を継続し、しっかりと採算の取れる形として自立させていくかという、次の段階に入っている。 

(㊦に続く)