掘り出し!インドネシア秘話 掘り出し!インドネシア秘話 ②ー冷戦を動かした1人の「捕虜」 / スカルノ大統領、死刑判決を外交カードに

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 1958年5月18日、マルク州アンボンの空で、1機のB26爆撃機がインドネシア政府軍の対空砲火によって撃墜された。操縦していた米国人のアレン・ローレンス・ポープ氏は機体から脱出したものの、落下傘がヤシの木に引っかかり、脚に重傷を負った状態で軍に拘束された。

 この米国人操縦士とその所持品は、インドネシアの地方反乱に米政府が秘密裏に関与していた証拠となった。45年の独立から10年余り経ったインドネシアを舞台に、冷戦下の大国政治が姿を現した瞬間だった。

1959年12月28日、ジャカルタの軍事法廷に出廷した米国人操縦士のホープ氏=通信デジタル省提供

■地方反乱とCIA

 当時、スカルノ政権はスマトラ島とスラウェシ島で発生した大規模な反政府運動に直面していた。政府への権限集中や悪化の一途をたどる地方財政への不満に加え、インドネシア共産党(PKI)の影響力拡大に対する強い警戒感を背景に、スマトラでは「インドネシア共和国革命政府(PRRI)」、北スラウェシでは「ペルメスタ運動」がそれぞれ政府に反旗を翻していた。

 米国が警戒したのは、スカルノ大統領が「非同盟中立」を掲げながらもソ連や中国との関係を深め、国内でPKIが急速に支持を広げていた政治情勢だった。莫大な人口と資源を抱えるインドネシアが共産圏に傾斜すれば、東南アジアにおける勢力バランスが根底から崩れかねない――。こうした危機感から、米中央情報局(CIA)は反乱勢力に対して武器や資金、通信機材を隠密裏に供与し、民間航空会社を装った航空作戦による支援を本格化させた。ポープ氏はこれら反乱軍側の「革命空軍」でB26を操縦していた。

 米政府は表向き、反乱への関与を一切否定していた。ダレス国務長官(当時)も58年4月の会見で、反乱側にいた外国人は「単に報酬目的で雇われた傭兵にすぎない」と説明していた。

 しかしそのわずか1カ月後、ポープ氏が軍用機とともに生け捕りになったことで、米政府による一連の否定の文脈は大きく揺らいだ。

 ポープ氏は元米空軍の操縦士で、朝鮮戦争のほか、フランス軍を支援するインドシナでの秘密航空作戦にも参加していた。

 インドネシアの地方反乱でも多数の爆撃や機銃掃射を実施しており、撃墜当日はアンボン周辺に展開していた政府軍の艦船などを攻撃していたとされる。

 裁判は59年12月に始まり、計17回の公判が開かれた。ホープ氏は自身を「戦争捕虜」として扱うよう求めたが法廷側に退けられ、60年4月29日、ジャカルタ軍事法廷は政府敵対勢力への加担や偵察活動、軍兵士らを殺害した罪などを認定し、死刑を言い渡した。

■交渉の材料に

1961年4月、米メリーランド州アンドルーズ空軍基地でケネディ大統領と言葉を交わすスカルノ大統領(左)。両首脳の間でポープ氏をめぐる交渉が繰り広げられていた=米ホワイトハウス提供

 しかし、ポープ氏の死刑が執行されることはなかった。米政府が水面下で減刑や身柄の釈放を強く求め始めたためである。

 米国は反乱勢力へ支援が完全に失敗に終わったことを受け、対インドネシア政策を大きく転換。インドネシア国軍、特に反共色の強い陸軍幹部との関係強化へ外交の軸足を移しつつあった。

 一方、スカルノ氏にとってもポープ氏を処刑することは必ずしも得策ではなかった。米国の工作員に対し死刑判決を下した時点で、反帝国主義を掲げる国内政治向けの宣伝効果は十分に達成されていた。執行を保留すれば、米国に対する強力な外交カードとしての価値を維持できる。

 61年にジョン・F・ケネディ政権が発足すると、米の対インドネシア外交は柔軟性を増していく。

 その過程で最大の焦点となったのが、当時は依然としてオランダ領のままであった西ニューギニア(現パプア地方)の帰属問題だった。

 62年2月14日、ケネディ大統領の弟であるロバート・F・ケネディ司法長官がジャカルタを訪問し、スカルノ氏と直接会談してポープ氏の釈放を直談判した。

 米外交公文書によると、この際スカルノ氏は「取引をしてもよいか」と持ちかけ、ポープ氏の釈放と引き換えに、西ニューギニア問題で米国がオランダ側に圧力をかけるよう暗に要求した。

 これに対しロバート氏は、領土を巡る主権問題と一個人の人道問題を等価交換することはできないとして、その場での合意を拒否したとされる。

 この緊迫したやり取りは、ホープ氏が実際に「外交カード」として扱われていた実態を如実に示している。この会談の後、西ニューギニア問題は米国が積極的な仲介へ乗り出す形で急展開を見せ、同年8月の「ニューヨーク協定」の署名を経て、西ニューギニアの行政権がオランダからインドネシアへ移管される道筋が付けられた。

■食い違う「定説」

インドネシア空軍が1960年代から運用したものと同型のC130Bハーキュリーズ輸送機=ウィキペディアより

 この西ニューギニア帰属問題と並び、インドネシアにおいて今なお広く語り継がれているのが、ポープ氏の釈放と米製C130B「ハーキュリーズ」輸送機の導入を結びつける「等価交換説」である。

 広大な島しょ国家を統治するインドネシアにとって、未舗装の短い滑走路でも運用可能で、大量の兵員や物資を長距離輸送できる最新鋭のC130は極めて魅力的だった。当時の地方反乱の鎮圧作戦においても、国軍側の航空輸送力の不足は深刻な課題となっていた。

 インドネシアはその後、米国からC130Bを8機、KC130B(空中給油型)を2機導入することに成功。米国外でハーキュリーズを最も早期に運用し始めた国の一つとなった。

 インドネシアではこの背景について、「ポープ氏の釈放と引き換えに、スカルノ大統領が米国にハーキュリーズの売却を認めさせた」とする説明が半ば定説化している。しかし、当時の米外交公文書を精査すると、米政府側は同機の売却や軍事援助をポープ氏釈放の明示的な「対価」にすることを注意深く避けていた記録が残されており、真偽のほどは完全には立証されていない。

 62年7月2日、ポープ氏は静かにインドネシアを離れた。撃墜から4年以上、死刑判決から2年余りが過ぎていた。確定的な真実が明らかになっていないとはいえ、釈放と同時期に西ニューギニアの行政権移管や最C130の導入など、インドネシアが長年求めた米国への要求が相次いで実現したことから、両国間で複合的な交渉がなされたのは想像に難くない。

■小が大を食う

 ポープ事件は、米CIAの秘密工作が失敗した歴史の1ページであり、独立間もないインドネシアが超大国の弱みを突いた外交史でもある。B26爆撃機の撃墜と操縦士の生存は、スカルノ大統領の交渉力を飛躍的に高めた。

 下された死刑判決は、執行されなかったからこそ最大の外交価値を持ち続けた。スカルノ氏はホープ氏を処刑台ではなく、冷戦交渉の交渉台に載せ、領土と軍事力という自国の国益を最大限に引き出したのである。