坂村さんに聞く 海外クライシスのツボ 坂村さんに聞く 海外クライシスのツボー第5回 「正常性バイアス」防ぐ客観基準を

Share facebook はてなブックマーク note X (Twitter)

 危機管理で難しいのは、リスクを事前に想定することだけではない。異常が既に起きているにもかかわらず、それを「大したことはない」と受け止めてしまう心理も大きな落とし穴となる。こうした心理は「正常性バイアス」と呼ばれ、企業の危機対応においても看過できないリスクだ。

北ジャカルタで建設が進むアンチョール東部―プルイット間のハーバー・ロード2高速道路=アンタラ通信

 アマンさん(以下、ア) 第3回では、人が見たくないリスクを直視しようとしない「ダチョウ効果」について伺いました。今回もその続きの話になりますか。

 坂村さん(以下、坂)  はい。「ダチョウ効果」は、将来の危機が予測されているのに目を背け、対策が遅れる心理でした。今回は、たとえ事前の備えがあったとしても、目の前の異常を異常だと認識できなければ対策を発動できないという話です。

 ア 危機が起きているのに、それを危機だと認識できないと。

 坂 その代表格が「正常性バイアス」です。危険がすぐそこまで迫っていても、「これまで何も悪いことは起きなかった」「今回もきっと大丈夫だろう」と、自分にとって都合良く解釈してしまう心の働きです。

 ア 例えばインドネシアなどでも、そうした油断は起こり得るのでしょうか。

 坂 十分に起こり得ます。特にジャカルタ中心部にオフィスを構える企業や組織は、小規模なデモを日常的に目にしているはずです。停電、渋滞、給料への不満など、さまざまな理由でデモは起きますが、深刻な事態に発展することは多くありません。

 ア 「慣れ」が判断を鈍らせるわけですね。

 坂 その通りです。他国の例ですが、ある日本企業O社の例を紹介しましょう。

 パキスタンでは小規模なデモが頻繁に起きます。ほぼ毎週末、何らかの理由でデモがあると言ってもよい環境です。

 事案が起きたのは2018年でした。イスラム教の預言者ムハンマドを侮辱したとして、いわゆる「冒涜(ぼうとく)罪」に問われ、下級審で死刑判決を受けていたキリスト教徒の女性に対し、最高裁判所が証拠不十分で逆転無罪の判決を下したのです。これに抗議した宗教保守派などが、全国的な大規模デモを呼びかけました。O社もその情報自体は事前に把握していました。

 しかし、現地での日常に慣れきっていた同社は、「まあ、いつものデモだろう」と受け止めてしまったのです。特別な警戒態勢を取らないまま、駐在員らは週末、車でゴルフに出かけてしまいました。これが大きな失策となりました。

 ア 実際には何が起きたのでしょうか。

 坂 デモ隊は都市部の主要道路を封鎖し、車やトラックを燃やすなどして各地の交通がまひしました。さらに政府側は、都市へのデモ隊の流入を止めるため、高速道路や幹線道路の出入り口をすべて閉鎖しました。

 その結果、O社の皆さんは高速道路上で閉じ込められてしまいました。水だけは何とかありましたが、食べ物はなく、簡易トイレもない。用を足すにも車内や路上でという訳にもいかず、大変な苦境に追い込まれたそうです。

 ア それは深刻ですね。どのくらいの時間、孤立したのですか。

 坂 結局、高速道路で丸一昼夜を過ごし、翌日になってようやく駐在している街に戻ることができました。一見すると笑い話のようですが、これこそが正常性バイアスが人をリスクにさらす典型例です。

 ア 「いつものこと」と思ったために、危険を見誤ったわけですね。個人だけでなく、企業にも影響しますか。

 坂 大きく影響します。企業レベルで正常性バイアスに警戒すべき理由は主に二つあります。一つは危機への回復力を意味する「レジリエンスへの投資不足」。もう一つは「セキュリティープロトコル(安全防御策)の弛(ゆる)み」です。

 ア まず、レジリエンスへの投資不足とは何でしょうか。

 坂 ジャカルタのように、長期間にわたって「通常」の運用状態が安定している環境では、企業はつい安心してしまいます。その結果、バックアップシステムや代替拠点、通信手段、物理的な障壁といった備えへの投資が後回しになりがちです。

 ア もう一つの「セキュリティプロトコルの弛(ゆる)み」とは、どういう状態ですか。

 坂 対策そのものは存在しているのに、運用面で緊張感が失われている状態です。

 例えば、長年トラブルがないからと職員が防犯ドアを開けっ放しにしたり、非常口の前に荷物を山積みにしたり、来訪者確認が形式だけになっている、そういった現象です。

 ア 企業は、どのように正常性バイアスを防げばよいのでしょうか。

 坂 まず「慣れていることほど危ない」という前提を持つことです。デモが多い地域にいるからといって、デモに慣れて軽視していい理由にはなりません。むしろ、日常的に見慣れているからこそ、重大な変化を見落としやすいと考えるべきです。

 そのうえで、客観的な判断基準をあらかじめ明文化しておく必要があります。例えば「主要道路が封鎖された」「複数地点で放火が発生した」「当局が交通規制を強化した」といった兆候が出たら、通常業務を停止し、在宅勤務や退避に切り替える。こうした条件を明確にしておくことが重要です。

 ア 現場の感覚だけに頼らないということですね。平時の点検も重要になりそうです。「安全神話」に浸っていないか、常に疑うということが大切ですね。


◇坂村史帆さんの経歴

 東京大学大学院を修了後、外資系コンサルティング・ファームで地政学リスク分析と企業の危機管理に12年間従事。専門分野は、国際紛争、テロ、治安情勢。米国やインドなど世界10カ国以上で講演実績。

 地政学リスクやリスクマネジメントについての講演や相談の依頼は infopod20
18(アット)gmail.comまたは、noteのページ(https://note.com/transitessay/n/n1b666e2e63f7)まで。