坂村さんに聞く 海外クライシスのツボ 坂村さんに聞く 海外クライシスのツボー第8回 ビジネスに潜む「甘いわな」
海外出張先で親切にしてくれた通訳や、取引先との会食が、機密情報を奪う「ハニートラップ」の入口になることがある。坂村さんはこのほど、警視庁で長年にわたりスパイ対策に携わった元公安部捜査官で、人気ドラマ「VIVANT(ヴィヴァン)シーズン2」の公安監修も務める松丸俊彦氏の著書「元公安警察が明かす! ハニートラップにかかった男たち」(ブックマン社)の構成を手がけた。
今回は同書の実例を元に、映画や小説の世界だけにとどまらない「ハニートラップ」の実態とその防衛策を紹介する。

アマンさん(以下、ア) 今回は「ハニートラップ」を扱った書籍を出されたそうですね。
坂村さん(以下、坂) はい。最初にこのテーマで執筆の依頼をいただいた際は、単なる都市伝説ではないことくらいは認識していましたが、「一冊の本にまとめられるほど、具体的な例があるのだろうか」というのが率直な感想でした。ところが、国内外の公文書や過去の捜査資料を含めて精査していくと、世界各地からさまざまな工作の記録が浮き彫りになってきました。
ア ハニートラップと聞くと、魅力的な異性が突然近づいてくるような、スパイ映画の劇的な場面を想像しがちです。
坂 実際はそれとは異なり、もっと自然なビジネスの日常から始まります。本で紹介している典型的なケースの一つが「通訳」を使った手口です。
例えば、日本企業の幹部が海外の展示会に赴き、現地企業の製品に関心を持って商談を申し込む。相手企業の技術者や担当者とともに、親切な女性通訳が同席する。ここまでは通常の取引の光景です。
その後、「ビジネスの成功を祝して食事でも」と誘われ、指定されたレストランへ向かうと、なぜか通訳の女性しかいない。「他の担当者は急用で都合がつかなくなった」と説明されれば、せっかく出向いたのだからと、そのまま2人で食事を共にするでしょう。
食事中に女性が酒を多く飲み、「気分が悪くなったのでホテルの部屋まで送ってほしい」と頼んでくる。そこで親切心から付き添い、客室の中まで入ってしまう。そしてベッドを背景に写真を撮影されたり、性的な場面を盗撮されたりすれば、それが後々、企業の技術情報や機密を脅し取るための最大の「弱み」として利用されるリスクへと直結します。
ア 実際に性的関係を持っていなかったとしてもですか。
坂 その通りです。ホテルのベッドを背景に男女2人が室内に写っている写真が存在するだけで、第三者の目には客観的に何が起きたのか判別できません。「この写真をあなたの所属企業や家族に見せる」と脅迫されれば、それだけで当事者には耐え難い心理的圧力がかかります。
つまり、ハニートラップの本質は必ずしも性的関係そのものにはありません。標的に「他人に知られたくない不都合な状況」を意図的に作り出し、その弱みを人質にして、機密情報の提供や協力関係の維持を迫る点にあります。
ア 必ずしも性欲の隙だけが狙われるわけではないのですね。
坂 むしろ、その点こそを最も警戒すべきです。「体調が悪い人を眼前にして放っておけない」という親切心や、「この機会を逃せば大きな商談を失うかもしれない」という仕事への強い責任感、さらには「自分だけが異性から特別に扱われている」という虚栄心。相手はそうした普通の、人間心理を徹底的に研究して利用します。
ですから「自分は倫理観が強いから異性の誘惑には決して引っかからない」と主観的に過信していても、何の防衛策にもなりません。
ア 怪しい人物を見抜くにはどうしたらいいですか。
坂 「相手を見抜こうとしないこと」です。目の前の人が通訳かもしれないし、その場で本当に体調を崩しただけかもしれない。それを限られた時間と情報の中で見破ることは、プロの捜査官でも困難を極めます。
それよりも重要なのは、あらかじめ「自分の行動に厳格なルールを設定しておくこと」です。
例えば「仕事で知り合ったばかりの相手とは、いかなる理由があろうとも密室で一対一にならない」「宿泊予定者以外の人間を、自分のホテルの客室に絶対に入れない」と自らの鉄則を決めておく。相手の正体を見破れなくとも、このルールを守るだけで、工作員など相手が狙う危険なシチュエーションを絶つことができます。

ア 海外でビジネスを展開する企業に対しては、以前からこうしたリスクへの注意喚起がなされていたのでしょうか。
坂 はい。例えば2008年ごろ、英情報機関「MI5」は、中国企業とビジネス上の関係を持つイギリスの主要企業や金融機関などに対し、スパイに関するリスクをまとめた警告文書を発行しました。
興味深いのは、警戒すべき手段として単に性的な誘惑だけでなく、過度なまでに豪華な接待や、相手を過剰におだてて油断させる心理工作などが明記されていた点です。まず個人的な親密関係を築き、「この人物なら信頼できる」とターゲットに錯覚させる。そこから一気に心理的な距離を縮めて機密に迫るわけです。
具体的な対策としては、リスクの伴う会合には必ず2人以上で臨むことや、会話が全て盗聴・録音されている可能性を前提に、平素から行動することが重要になります。
ア ホテル内でも、やはり注意が必要ですか。
坂 ホテルの自室を「安全な私的空間」だと過信しない方が賢明です。特に外国人が多く利用するホテルでは、不在時の客室内での盗聴やデータが盗まれるリスクを常に想定しておく必要があります。
ましてや、面識のない人物を部屋の中に招き入れれば、盗撮や窃盗、あるいは情報流出の引き金を自ら引くことになります。「そもそも宿泊者以外の人間を部屋に入れない」という、一見単純とも思えるルールを守ることが肝心です。
ア 結局、どのような場面で最も警戒のアンテナを張るべきなのでしょうか。
坂 私は「仕事上の関係が、急に個人的(プライベート)な関係へと変質する瞬間」に最大の注意を払うべきだと考えます。
商談相手から突然、2人きりでの会食に誘われる。ホテルの部屋へ同行するよう求められる。あるいは、業務とは全く無関係な個人のプライベートについて深く探られる。そうした「公私の境界線」を越える局面に直面した時、まずは一度立ち止まる。
そして「おかしいな」と思ったら即座に第三者を介在させることです。同僚に連絡を入れる、上司に一報を入れて相談する、絶対に1人で抱え込んで行動しない――これだけの防衛行動をとるだけで、相手があらかじめ描いていた筋書きを崩すことができます。
ア 最後に、海外出張の機会が多い読者に向けてメッセージをお願いします。
坂 今回の書籍をまとめる中で改めて痛感したのは、ハニートラップとは決して特別な政治家や一部のエリートだけが狙われる、映画のような特別な世界ではないということです。
親切にされればうれしい、称賛されれば悪い気はしない、困っている人が目の前にいれば助けたい、ビジネスの好機であれば逃したくない――これらは人として誰もが持ち合わせている普通の心理です。
だからこそ「自分はだまされない」と根拠のない主観に頼るのではなく、自らの行動に明確な「客観的な境界線」を引くことが求められます。
二人きりの密室を作らない、見知らぬ人物をホテルの部屋に入れない、重要な会話は常に聞かれている可能性を想定する、公私の境を安易に越えない……相手の正体を完璧に見抜く必要はありません。危険なシチュエーションそのものを自ら作らないことこそが、最も確実で強力な防衛策です。
◇坂村史帆さんの経歴
東京大学大学院を修了後、外資系コンサルティング・ファームで地政学リスク分析と企業の危機管理に12年間従事。専門分野は、国際紛争、テロ、治安情勢。米国やインドなど世界10カ国以上で講演実績。
地政学リスクやリスクマネジメントについての講演や相談の依頼は infopod20
18(アット)gmail.comまたは、noteのページ(https://note.com/transitessay/n/n1b666e2e63f7)まで。
「元公安警察が明かす! ハニートラップにかかった男たち」
松丸俊彦著、坂村史帆構成
ブックマン社
出版社:https://bookman.co.jp/
Amazon:https://amzn.asia/d/0iwowwci