インタビュー 「自力で生きるしかなかった」ーデヴィ夫人、80年代は実業家の顔も
スカルノ初代大統領夫人のデヴィ・スカルノ氏がこのほど、ジャカルタ日報のインタビューに応じた。デヴィ夫人は8月17日、インドネシアの独立81周年記念式典に招かれ、ジャカルタのムルデカ宮殿(大統領宮殿)を訪問。1960年代から現在に至るまでインドネシアを見つめ続けてきたデヴィ夫人は「目覚ましい発展を遂げた」と述べる一方、拡大する貧富の差に懸念を示した。さらに、一般にはあまり知られていない実業家時代について「自分で生きるしかなかった」と当時の苦労を語った。(ジャカルタ日報編集長 赤井俊文、写真はデヴィ夫人提供)

■招待状の豪華さに驚き
——式典でムルデカ宮殿を訪れた感想は。
◆毎年ご招待はいただいていたが、実際に足を運んだのは約15年ぶりだった。かつてに比べて、宮殿敷地が非常に狭くなったという印象を受けた。昔は美しい庭園が広がっていた場所に、新しい建物が次々と建てられたためだろう。式典自体は、色鮮やかな民族衣装に身を包んだ人や、国旗の色である赤と白のドレスコードに合わせた出席者で埋め尽くされ、大変な熱気に包まれていた。
——特に印象に残ったものは。
◆まずは招待状の豪華さに驚かされた。ジャカルタに到着後、現地で手渡されたのだが、とても立派な箱に収められていた。朝の部と夕方の部の双方の招待状が入っており、ドレスコードも指定されていた。当日は、インドネシアの閣僚や各国の外交官らと同じエリアで参列した。
——式典の演出はどうだったか。
◆パフォーマンスが特に立派だった。一糸乱れぬ規律の取れたパレードが長時間にわたって行われ、中でも陸海空軍の兵士たちの姿は印象深く、特に空軍のジェット機やヘリコプターによる航空ショーは圧巻だった。機体から赤と白の煙を放ちながら空を駆け抜ける様子は、とても美しかった。
——今回のジャカルタ訪問は式典出席が主な目的か。
◆式典への出席はもちろん、久しぶりに現地の旧友たちと再会したいという思いが強かった。インドネシアには長年温かい交流を続けてきた大切な友人たちがいる。現在は彼らと顔を合わせることが何よりの楽しみで、結婚式などの機会に合わせて時折ジャカルタを訪れている。
今回はジャカルタに2日間滞在し、その後アゼルバイジャンでの友人の結婚式に参列して再びジャカルタに戻るという過密スケジュールだった。
私の家族もジャカルタを訪れることがあり、8月初旬にはメガワティ元大統領の孫の結婚式があり、私の孫(キランさん)が出席した。また、9月5日にはスカルノ元大統領の長男グントゥール氏の孫の結婚式が行われ、ロンドンから娘(カルティカさん)が出席した。
■愛国心に違いも

——1959年に初めてインドネシアを訪れてから60年以上が経過した。最も変化を感じる部分はどこか。
◆やはり劇的な経済発展だ。スカルノ政権時代、原油価格は1バレルあたり1ドル25セント程度だったが、その後のスハルト政権期にかけて一気に29ドルまで高騰した。
そうした変化に伴って国家予算は格段に増え、産業も急速に発達した。近代的な高層ビルが立ち並ぶようになり、現在もその勢いは衰えていない。
ただ、ジャカルタの区画整理はオランダ植民地時代のままで、全体的に道路が非常に狭い。富裕層1世帯で5台もの車を所有するケースも珍しくなくなり、それが現在の深刻な渋滞を引き起こす一因になっているのではないか。
——当時のジャカルタは、現在とは異なる光景だったのか。
◆中央ジャカルタのホテル・インドネシア(現在のホテル・インドネシア・ケンピンスキー・ジャカルタ)は日本の戦後賠償事業によって建設されたものだが、私が初めて訪れた当時は、あの周辺には文字通り何もない荒野が広がっていた。ホテルの前に広がるシンボル的な丸い噴水も、スカルノ氏の発案で造られたものだ。
スマンギの立体交差点もそうで、当時は周りの木々もほとんどなく、クローバー型の道路が遠くからでも一目で確認できた。現在は周辺の緑がうっそうと生い茂り、当時の面影をうかがい知ることが難しくなっている。
——インドネシア人の価値観や日々の暮らしぶりをどう見ているか。
◆インドネシアの人々は、現代の日本人よりも強い愛国心を保っていると感じる。スカルノ元大統領はかつて「革命はまず精神力から来る。精神力が一番大切だ」と説いたが、今の日本人は逆にそれを失いつつあるように思えてならない。
一方で、現地の貧富の差は昔よりも激しくなった。財閥の富裕層は国内外に多数の邸宅を構え、華やかな社交界で富を誇ることに抵抗がないようだ。彼らはニューヨークやパリなどに家を持ち、身に付けている宝飾品も豪華だ。
私がたまにインドネシアを訪れると、今でも手厚いもてなしを受けるが、彼らの中には小分けにした封筒に5000ルピアや1万ルピアの現金を入れ、チップやお手当として周囲の人へ渡すなど施しの慣習が残っている。
——そうした財閥の友人とは古くからの付き合いなのか。
◆1960年代に知り合った友人の多くは既に亡くなっている。現在お付き合いがあるのは、80年代以降、私がインドネシアで実業家として活動していた時期に出会った方々が大半だ。

——一般には、スカルノ元大統領が1970年に死去し、デヴィ夫人がパリに移住した後、80年にインドネシアへ戻って実業家として活動していたことはあまり知られていない。
◆その通りで、ほとんどの方は私がスカルノ氏の遺産で楽々生活していると思っているが、1円もいただいていない。
そもそもスカルノ氏は物質的な物に全く興味がない人だった。長期にわたって投獄や流刑を経験し、国と国民のことだけを考えていた。そういう人でなければ、長い苦難を経て独立を成し遂げることはできなかったと思う。
スカルノ氏は最晩年、私のために建てられた「ヤソオ宮殿」で事実上の軟禁状態に置かれていた。娘の出産で私は日本に帰国していたため、当初は毎月手紙をやり取りしていた。しかし、スカルノ氏の体調が悪化すると、3カ月に1回、半年に1回、1年に1回ほどになり……最後はスカルノ氏の長女メガワティ元大統領に口述した手紙が私のもとに届くようになった。
そうした状態では、仮にスカルノ氏に財産があったとしても、私に渡す手段がなかったことはわかってもらえると思う。
だから、自分で生きていくために、ビジネスをゼロから勉強して始めざるを得なかった。それだけは、ちゃんと覚えていてほしい。

——当時はどのような事業を。
◆石油・ガスプラント関連の会社を設立して事業を営んでいた。
アメリカやイギリス、フランスなどの外資系企業のインドネシアでの代理人として案件に関わり、日本企業のJGC(日揮)や千代田化工建設などが手がける大型プロジェクトにも携わっていた。
——それまでビジネスの経験はなかったのか。
◆なかった。ただ、父が建設業をしていたし、スカルノ氏と一緒にいた時「ここに港を作ろう」「ここに工場を建てよう」といった話を身近で見ていた。土台を作って建物を建て、そこに機械を据え付ける。そうしたことは、もう私の血となり肉となっていた。
——本当にゼロからの出発だった。
◆すごいですよ、私は。本当に。
——具体的にはどのような業務を。
◆例えば、大手総合商社などが絡む建設プロジェクトにJGCが参画していた場合、そこへ私が扱う機械を入れたりする。そうした下請け的な仕事が中心だった。
——案件の規模は。
◆一つのプロジェクトが当時1500億円に上る時代だ。重機1機が45億〜60億円ということもあった。入札書類の作成だけで約2億円を要し、完成した書類をスーツケース8個に詰めて送ったことを覚えている。
——スハルト政権下では、旧スカルノ派とみなされることが政治的弾圧につながった。当時、スカルノ氏の妻だったデヴィ夫人が事業を行うのは困難だったのでは。
◆本当に大変だった。メディアがスカルノの「ス」すら報じることも許されず、スカルノ派の人間は冷遇され、投獄や死刑になった人もいた。
そのような状況下で、本当に日本の会社の方々に支えられた。今でも心から感謝している。
——当時はどのような働き方を。
◆社員が来る1時間前には出社し、全員が帰った後もオフィスに残り、朝7時から夜10時ごろまで仕事をしていた。当時は中央ジャカルタのタムリン地区にある「ジャヤ・ビルディング」があり、そこの4階ワンフロアを丸ごと使って働いていた。

——インドネシア人の部下をマネジメントする難しさは。
◆当時、約20人の部下がいたが、苦労は全くなかった。現在のインドネシアの目覚ましい発展こそが、現地の人々の優秀さを証明している。今のインドネシアの人たちはとても利発で、高い教育を受けていると感じる。
——日本人駐在員の中には「文化の違い」に苦労する人もいる。
◆文化差を感じるなんて「なんで」と思う。
こういう言い方をするのは悪いけれど、日本人の方が田舎っぺなんじゃないかと思うことがある。例えば、現在でもそうだと思うが、フランスに駐在してもフランス人の中に入っていかない。せっかくパリに住んでいてもフランス人のコミュニティーに入ろうとせず、日本人同士で付き合っている。
インドネシアでも同様だ。現地の人々と深く付き合おうとしないから、インドネシア語も習得できないし、現地の友人もできない。それなのに「文化の違い」を理由にするのは、おかしいと思う。
——スカルノ氏とは当初から英語で会話していたのか。
◆その通りだ。彼は英語がとても流ちょうだった。私が大統領と結婚できたのは、単に若さや容姿によるものだけではなく、英語で意思疎通ができたからだ。 ——インドネシア語を身に付けたのは、その後か。
◆インドネシア語は使用人との会話に限られていたため、使う機会が少なく、習得は一番最後になった。

——今後、日本とインドネシアの関係において、何か関わっていきたいという考えは。
◆私はもう過去の人間であり、全く関与していない。インドネシアでの事業からも一線を退いている。
今はただ、個人的なつながりがある友達との再会を楽しみにインドネシアを訪れているに過ぎず、60年前の過去の出来事を今に引きずってはいない。
——かつてスカルノ氏がデヴィ夫人のために建てた「ヤソオ宮殿」については、どのように考えているか。
◆あの宮殿は今でも私が正当な所有権を持っていると思う。スカルノ氏が私に残してくださった唯一の形見だ。スハルト政権下で国軍博物館へと変えられてしまったが、本来は「スカルノ博物館」として機能すべき場所だ。大統領の偉業を称え、各国から贈られた品々を展示する場所にしたい。そして、現在は各地に散逸してしまっている大統領ゆかりの品々を再び集め、歴史的な遺産として保存していきたいと考えている。